44番・67番
ブダペスト市交通会社
ブダペスト市電
36番
10番
23番
43番
郊外電車・Nagyteteny線
廃線跡2
65番
郊外電車・ 東駅-オルシュヴェゼール広場線
郊外電車・ ラーコシュセントミハーイ線
郊外電車・ラーコシュパロタ線
廃線跡
両路線共1990年代中頃廃止となった。乗場は東駅正面にあり、44番はRakos Patak迄、67番はMezeskalacs ter迄運行されていた。67番は現在バス(67V)が代行している。東駅を出発した両路線はHungaria Korut迄並行運行しそこで別れた。また、東駅前広場には路線がRakoczi通り方面に延びていた跡もある。(2003年)
左上の写真は、東駅から次の停留場 Dozsa Gyorgy ut。停留場は今67V代行バスに使われている。市電はTokoly通りを進んだ。真中上はその停留場そばのジョルナイ陶器に飾られた建物。その陶器は共産党時代に青一色に塗られてしまったようだ。右上はStefania út停留場、やはり代行バス停留所に使われてい。(2003年)

左上は線路上に造られたバス停留所。片方の線路上に造られている。市電の停留場はこの写真の手前にあったが、交通の妨げになる為2002年に取り去られた。写真奥の高架橋は国鉄でZugló駅がある。真中上は、国鉄高架橋下。44番は真直ぐ先に、67番は左へと進んで行った。右上はパトリシア・ホテル前。電車は来るはずも無いので、宿泊客を運んできた外国ナンバーの観光バスが止まっている。

左上はパトリシア・ホテル前に残る停留場跡だろうか。引込線跡か、またはここより発着の市電があったのか。ここより67番はメキシコ通りを進んで行った。真中上はKorong u停留場跡。右上、やはり市電は来ないので車が止めてある。左下、正面に地下鉄1号線の車庫があり、右方向へ67番は進んだ。今はその路線を69番が、途中から62番が走っている。左へ進むと地下鉄1号線の駅、メキシコ通り駅がある。
さて、44番はフンガリア通りより左上のBosnyák tér迄の間は停留場は無かった。この広場の停留場跡に立っていると、今にも市電か来そうな思いになる。真中上もボスニャーク広場、右端にバスが見えているが7番のバスはここから出ている。右上はボスニャーク広場直ぐ先にあり、44番市電の終点でここでUターンした。フンガリア通りとボスニャーク広場間は朝大変混みあっており、バス乗客をスムーズに運ぶのに再び44番の運行が提案にも上がったりした。しかし、一時計画が宙に浮いていた地下鉄4号線工事が決まり、二期工事が東駅とボスニャーク広場間で行われる。これにより44番市電再運行は完全に無くなっただろう。
44番の終着停留場(右)Rákos patak。ブダペストの市電は車両の前後に運転席があり、ここの様にループ線でUターンするのは珍しい。17番のマルギット橋停留場にも残っているが使用はされていない。今は3番や56番ぐらいだろうか。
この路線は第二次戦後まもなく廃線になった。Rakoczi通りよりKesmark通り、最後は15区のEpres通りまで延びていた。また、郊外電車廃線後、その跡を市電が路線を変えてではあるが走っていた。65番市電はSzentmihalyi通りまで走っていた。写真はRakoczi通り、市電の発着場はこの辺であった。
1972年、地下鉄2号線の東駅-Ors Vezer広場間の開通により、この区間の郊外電車は廃線となった。 左写真の建物横より電車は出ていた。中央は2007年に競馬場跡にオープンした、「ARENA PLAZA」ショッピング・モール。電車は六車線道路の左側を走っていた。右写真、この先「Astaros Sandor通り」に停留所があった。 (2008年10月9日撮影)
左、線路跡がやや盛り上がっている。この下を国鉄が走っている。中央、地下鉄2号線「Stadionok駅」、トロリーバスが止まっているこのあたりに線路は引かれていた。左は、Hungaria環状線を横切り、線路は建物沿いに引かれていた。このあたりにも駅(停留所)があった。郊外電車の色が緑であるので、写真の緑の建物が駅跡のようにも思える。建物前は異常に歩道が広く線路が引かれていたことが分る。
左、国鉄高架下をくぐり、中央写真のこの辺に駅(停留所)があった。右写真は、国鉄線路への引込線。郊外電車、4路線は繋がっておらず、互いを行き合う場合国鉄路線を使用する。2003年に無人の貨物車両が8キロ以上も走り出しこの引込線に進入し、ここで脱線し、車販売店のショールームに突っ込んだ。8キロ先のブダペスト16区は海抜240mほどあり、貨物車は坂を下った様な状況だった。
左、もうポイント跡は当然ないが、ここで本線(東駅方面)と国鉄路線方面に分かれていた。今舗装されているが、市交通会社車両使用のため。中央、この辺に駅(停留所)「Rona通り」があった。線路左横にはホーム跡(?)であろうか、舗装跡が見られる。
左写真の架線柱を見ると分るように、今は単線だが廃線前は複線だった。右は、Ors Vezer駅が見えている。
36番は東駅(Festetics Gy通り)より出ていた。現在の24番市電の路線をOrczy広場まで進み、その後Kõbánya通りを28番市電と共にLiget広場(左写真)まで走っていた。ここで36番はKápolna通りへと入っていった。左写真は砂に埋まりかけている線路が写っている。中央写真はKápolna通り、停留場跡が残り36番は奥へと進んだ。次の停留場が終点Kápolna広場(右写真)。ここで折返し運転。廃線区間は僅か1km弱だか36番はもう無く、やはり何となく寂しい・・・(2003年)
23番は東駅(Festetics Gy通り)よりFerenc Krtまでを走っていた。東駅を出た23番は現在の24番路線を走りOrczy通りよりVajda Peter通り(写真左上)に入り24番と別れた。左下写真の石畳を良く見ると線路が敷かれていた跡が残っている。その後、23番はVajda Peter通り(上真中)を真直ぐ走った。中央分離帯があるが、線路はそこに敷かれていた。2000年ごろ線路は取り外された。Vajda Peter通りの後、Könyves Kálmán通りに入り今の1番路線を南下していった。ただ23番は1番と違い、道路中央でなく右端を走り、稀に車と接触事故を起こしていた。Mester通りに入った23番は、現在の30番路線をFerenc Krt大環状線まで走った。中央、右下の写真はVajda Peter通りより工場への引込線が2ヵ所残っていた。このVajda Peter通りには Ganz-Hunslet社(旧 Ganz-MÁVAG社)工場ある。(2003年)
1950年代半ばまで、Móricz Zsigmond körtérよりNagytétényまで郊外電車(HÉV)が走っていた。今はその線路の上を47番市電がBudafokまで(18番、41番は途中まで)走っている。BudafokよりNagytétény間は郊外電車廃止後、1980年前半まで43番市電が走っていた。左下写真は、47番市電の終点Városház広場が奥に見られる。1980年後半までこの広場とBatthyány広場間で9番市電が運行されていた。真中下、線路はMária Terézia通りそしてNagytétény通りへと敷かれていた。右下、本線は右の坂を登っていき、引込線は左へと進んだ。(2004年)
引込線の奥にホームがあり、以前ここからワインや鶏肉の加工製品を積み込んだ。左上、線路上にガードレールが置かれている。真中上、ここにも線路が残っている。右上は国鉄Budafok-Haros駅付近。
左上同じく国鉄Budafok-Haros駅付近にて。石畳が写っているが、ここが停留場跡の様だ。真中上は、線路跡が歩道になっている。しばらく行くとカンポナ・ショッピング・モールへと出る。この後、国鉄30番路線を横切りNagyteteny地区へと入る。
この付近は比較的線路が良く残っている。と、言っても80年代半ばに比べると僅かしか残っていないが。上三つの写真に見られる様、わき道への交差部分に良く残っている。80年代後半に再び市電を走らせる話があった様だが、これらを見る限りもうその様な話は生まれないであろう。左の写真はNagyteteny地区の中心地、Szentharomsag広場でここが終点であった。写真奥左に停留場跡が写っている。何故ブダペスト市内終点なのに郊外電車か、と言うとこのNagytetenyは1950年代にブダペスト市に吸収合併された、元々はひとつの村であった。
今はこの区間を3系統のバスが走り、郊外電車と同じくMoricz Zsigmond広場が始発。
1960年代東駅・Ors Vezer広場間の廃線と同時にこの路線も廃線になった。東駅を出た電車はNagyicce駅(左上)で本線と別れていった。写真中央、本線はSashalom方面、左に曲がる支線が見られる。右写真、線路はSashalmi散歩道へと進んだ。この路線はRakosi通りまで複線であった。(2004年)
左写真、Sashalmi散歩道より。左はSashalom方面本線へ、右はNagyicce駅方面本線へ。真中写真、線路はここまででこの先ではもう取り除かれており、Sashalom市場の駐車場になっている。左写真、Budapesti通りまではこの様な状態で、電車が走っていた跡は見られない。が、良く見ると道路の右側部分が盛り上がっており、電車は右側を走っていたようだ。
Budapesti通りを横切ると道路は狭くなり、Rakoczi通りと名が変わる。写真真中、錆びた鉄柱があり郊外電車時代の物だろうか。所々にこの鉄柱が残り使用されている。右写真、電車は右に曲がりRakosi通り、Ilona通り、Csomori通りと一周し再びRakoczi通り(右写真に写っている左道路)に戻ってきた。
左写真、Rakosi通り。真中写真、Rakosi通りを走った電車は右手より曲がってIlona通りに入ってきた。鉄柱、道路の角に残る緩やかなカーブ、これらが電車が走っていた事を思わせる。右写真、Ilona通り、電車が走っていたとは思えない静かな通り。
写真左、電車はIlona通りより左手に曲りCsomori通りに進んだ。写真真中、Csomori通りより右に曲がりRakoczi通りに電車は戻ってた。(写真左)